3月26日から麻布十番での個展について
![]() 10.ヴァチカン ここは言うまでもなく世界一小さな国家とカトリック教会の総本山として有名である。今でこそ、ヨーロッパにも様々な宗教が存在するが,中世においてこのカトリックの権力は絶大で有った。 そしてありとあらゆる習慣、お祭り、儀式がこのカトリックの作法に乗っ取って執り行われたわけである。とくにこのイタリアにおいてはその影響力はものすごかった。ここバチカンはその強力な影響力を行使して、有りとあらゆる美術品の収集、また、最高の芸術家を雇い作品を制作させた。 そして、ここにおいてミケランジェロの残した作品の数々は500年経った今でも、光り輝きその作品の鑑賞のみに人々がここを訪れる程すばらしい。 まずはサン・ピエトロ寺院内にある「ピエタ」これは子どもの頃から何百回と画集で見てきた作品である。高校生の頃この彫刻の載った画集を買ってもらって、何度も何度も見た覚えが有る。とにかく目が離せないのだ、私に最も影響を与えた作品の一つである。あまりに美しい、この世にどんなにいろいろな芸術が氾濫して、様々な芸術論が戦わせられても,この作品の美しさは変わらない。 そして、この作品の置かれているサン・ピエトロ大寺院の大きさ、とてつもない大きさだ、そして大きいだけではなく隅々にまで気を遣ったデザイン、その美しさ、とにかくすばらしい物だった、そしてもう一つこの中にあるすばらしい作品、「アレクサンドロス7世のモニュメント」建築家でもあったベルニーニの最後の作品であり、バロックを代表する彫刻でもある。この作品のコンセプトがものすごく、ヴェールの下から、骸骨が砂時計を差し出して「死」は、いきなりやって来る、そしてそれは教皇であっても同じことと言う事を意味している。そしてこの該事を覆い隠すヴェールに大理石を使っているが,その巧みなデザインに寄って柔らかい布の感じを表しているという、コンセプトの上でも,技術の上でもすばらしい最高傑作に仕上げている。面白いのは後世2人の女神の裸体を隠すため大理石に見える様に白いエナメルを塗った金属製のヴェールが加えられているが、言われ無ければわからない程自然に仕上がっている。 実はこの下がドアになっていて、この作品をじっと眺めているといきなりドアが開いて目の前に人が表れて驚いてしまった。 そしてもう一つのハイライトである、システィーナ礼拝堂、ここはもうものすごい人気で、大変な人数の中でゾロゾロと歩いていくしかなかった。 礼拝堂のミケランジェロの絵を見る為にはバチカン美術館から入って道順に従ってぐるりと回らなければたどり着けない、実はちょっと近道を探したのだが、結局,皆と同じ様に行くしか無い事がわかりあきらめた、しかしゆっくり皆と一緒に見て回るだけの事は有った、ひとつひとつ説明するときりがないので、気になった作品だけあげてみると、ベルベデーレのトルソや、ラファエロのフレスコ等は相当有名なので一同は見た事がある作品だろう。 しかし最後にたどり着くシスティーナ礼拝堂のミケランジェロのフレスコはやはりとんでもない無い迫力がある、天井いっぱいに描かれた「天地創造」の物語、前面には「最後の審判」どちらもほとんど一人で描き上げたと言う話、確かに4年と言う年月を懸ければ不可能ではないような気はする、しかしそれは私に、一人の人間が成し遂げる仕事の大きさを教えてくれた。技術云々を述べだせば、後に表れるカラバッジョや、ルーベンス等いろいろすばらしい画家は沢山いるが、それまで存在し得なかったアートをこの世に送り出し、その後芸術家に延々と影響を与え続けている作品が他に有るだろうか。この作品も私が高校生のときに手に入れた画集の中に有り、毎日の様に眺めて感動した作品である、中でも「デルフォイの巫女」の美しさには心奪われ、何度も見返した覚えが有る。そして今ここにその作品群を目の前にして、私には言葉も何も無かった。ただ一人の人間が芸術においてなし得る最高の仕事を堪能させてもらった。 これ上以上の説明はここには書けない、それは私と作品との大切な思い出なのだ。そしてこの後このバチカンを後にした。 3月26日から麻布十番での個展について ![]() 9.ローマ 3月26日から麻布十番での個展について ついにローマへ到着、2千年の昔からヨーロッパ世界の中心地として君臨し、今もイタリアの首都として絶大な影響力を誇る大都市。様々な芸術の主題として書かれ、このローマにまつわる格言も数多く、知らない人のいない街。 古くはジュリアス・シーザーのローマ、そしてカトリックの布教の中心地としてのローマ、そして、十字軍、ルネッサンスと2千年の歴史の中心地であり続けたローマ。 このローマも見るものが多すぎ、とても今回1度の旅では見尽くす事は出来ない。 まあ、それはどこの街でも同じではあるのだが。 それにしてもこのローマは見るべきとこが多いと言うか、時代ごとにいろいろ用意されている。 レンタカーを返しに行く途中、アッピア街道と言う看板を見つけたので曲がってみると、なんとそこには2000年前から存在する旧街道が続いていたのだった。 また道路沿いには昔の水道き橋の名残がとぎれとぎれに続いていた。 面白い事にその日滞在するホテルのベルボーイが私の画材入れのバックを見て、自分も画家なんだと話しかけて来たそして明日は近所で青空アートショーをしているので見に来いと、住所を教えてくれた。 次の日はヴァチカン周辺を見て回るため、スケッチブックを持って出かけたがその前にもちろんアートショーをのぞいてみた。 そこにはベルボーイと友人たちが朝から陽気に騒いでいた。ベルボーイが私の事を仲間に紹介すると、中の一人が「おれはアメリカの映画が大好きなんだ」とロバート・デ・ニーロのまねを始めて皆が大笑いをし始めた、そう言えばデ・ニーロはイタリア系だったな。 その後カステル・サンタンジェロに向かいそこから数枚のスケッチと油絵を描いた。 このサンタンジェロは近くにあるサン・ピエトロ寺院と地下で繋がっていると言う噂があるようだが定かではない。 描いていると、可愛い女の子がやって来て私の横からはなれない、どうも絵を描いているのを見るのが好きなようで時々どこかに行ってはまた戻って来てじっと絵を覗き込む。 他にも絵を描いていると覗き込んで行く人は多いのだが、ここサンタンジェロは要塞として使われていたせいか、窓があまり大きくない、私はその窓から見えるサン・ピエトロ寺院を描いていたのだが、イタリア人は絵を覗き込んだ後、確認する為か私のスケッチブック越しに寺院を見て、また私のスケッチを見て納得して立ち去って行く。その度にスケッチを中断せねばならないのだが、まあこれも旅行の楽しみと逆にイタリア人の人物観察をして楽しむ事にした。 外に出てみるとサンタンジェロの前のテヴェレ川にかかる橋の両側に飾られたエンンジェルが美しかった。 その後、近くでパスタとサラダのランチをして、午後はコロッセオに向かった。 途中、バスや地下鉄を乗り継ぎながら駅を出てみるとそこには巨大なコロッセオがたっていた。 これを2000年もの昔、45000人を収容出来るものに仕上げた事にも驚くが当時、交通機関もなしにここに45000人集まっていたと言う事にも驚いた。回りはローマ時代の遺跡がこれでもかと言うくらいに林立していた。 バスに乗っていると地図を真剣に眺めていないとどこ降りて良いかわからなくなる。しかしそのうち面白い事を考えついた。 ここローマはどこに行っても見るべきものがある。 それならどこで降りても言い訳だ、それにバスの乗車券は前もって半日券、1日券とある、一日券を買っておいて、適当にバスに乗って、面白そうなところがあれば降りて近くを観光してまた近くのバス停から適当に乗って面白そうなところで降りれば地図とにらめっこしなくてもバスが何処かへ連れて行ってくれる。 もし自分の場所が分からなくなればタクシーに乗ってホテルまで連れて行ってもらえば良いだけの事だ。私はこの考えが気に入り、その後数回バスを乗り換え適当に観光して回った。その後は時間の許す限り、教会をのぞいてその日一日を過ごした。 旅行は自分の知らない世界を見て感動する事ももちろんすばらしいが、予定していなかった事や自分のおかした失敗等も含めていい思い出となるものである。私の友人は一緒に日本に旅行した時、軽い風邪をひいたので、田舎のクリニックに行って日本人の先生に見てもらった事が彼のその旅行の一番の思い出だと未だに語っている。 だから私は道に迷っても、その所為で予定していたものが見れなくなった時でも、出来るだけその迷っている状況を楽しむようにしている。 なれない言葉で地元の人に聞くのも良いだろうし、全く予定していなかった所で、予定していなかった発見があったりする。 そしてそれら全てが旅行の思い出となって記憶に残るのだ。 3月26日から麻布十番での個展について 8.オルチャ渓谷
3月26日から麻布十番での個展について この地域は最近世界遺産に登録された地域であるが、オルチャ川とその支流一帯の田園地帯をさし、人々が南イタリアやローマからフィレンツェ、果てはフランスまで様々な人々と物が行き交う主要交通路であったわけである。 ここにはモンタルチーノ、サン・キリコ、カスティリオーネ、ピエンツァ、ラディコファーニ、の5つの町を中心に中世からルネッサンス期に作られた、街道や田園風景全体が世界遺産として登録されている。中でもピエンツァは1996年に市街地の歴史的景観が先に世界遺産として、登録されている。 とにかく、ここはトスカーナの田園地帯の代表地、その中で、人々が神を信じ、自然との共同作業ですこしずつ作り上げてきた美しく素朴な田舎の風景だ。 町はどれも教会の塔を中心として、石やレンガで岡の上に作られ周りをオリーブとブドウの畑が囲んでいて、街の中の素朴な美しさも然ることながら、田園から仰ぎ見る風景も自然にとけ込んで本当に美しい。 この5つの町を全て訪れてみたが、どこもゆったりとした時間の流れる素朴な町だった、出来ればこういう町で一ヶ月とか過ごせる物ならゆっくりしてみたい。近い将来ゆっくりすることが出来るならと下調べの為に町の小さなスーパーというか、雑貨屋と言う所に入ってみたが,驚いたことに日本のコンビニと同じような品揃えなのである、チーズ、ワイン,地元の野菜が有って、他にも、いろいろちょっとした物が本当に沢山おいてある、ここなら暮らせるとの確信は得た。 私は実は料理は結構自分でつくる、とくにイタリア料理とくれば大好物、しかし今回のこの旅行で今まで思っていたイタリア料理の考え方が少し変わってしまった、どこで食べる料理も思っていたより軽いのだ、それがいい味を出していて、素材の味がよく見える、基本的には素材の味が有って、それを塩とニンニク、オリーブオイルで味付けしている、後はトマトや、香菜(バジル)等が入っている。しかし、どの料理も中に何が入っているかよくわかるのだ。実はこの後、自宅で作るイタリア料理が少し違った味付けになった。 私は今回この美しさを堪能するため、宿泊所に城を指定していた。サン・キリコから少し入ったところにあり、オルチャ川の渓谷に建つ城だ。サン・キリコから10分くらいだが曲がり角ごとに手書きの看板があって、間違いなく城に行き着くことが出来た。城についたときには既に2組の先客が庭のパティオで食前の酒を楽しんでいた。 荷物を降ろして、城の中を見て回ったが、これはどうも,小さな領主の城と言った感じ、攻められたときの為に入り口は大きな門一つで、周りをぐるっと囲む城壁には上から敵を迎え撃つ為の狭間が作られているし、城の後ろ側は、50メートル程の断崖になっている。つまりは小さいながらもきちんと戦争用に作られた城なのだ。 その後この城でも食事を出すと言うことだったので、夜はここで食べることにした。泊まっている人用の食事だけなのでメニューの品数は少ないが十分楽しませてもらった。 ワインやオリーブオイルはこの城で作っているので、それが出て来る。最初の日はボトルで頼んだが、次の日は、よく考えてみればここならグラス売りのワインは樽に入っているはずとグラスで頼んでみると、ボトルとは違ったもっと重く丸い味わいだった。 しかし、ここでの一番の収穫は働いている人たちだ、毎回の食事に出てくウエイトレスは近くのおばちゃんと言った感じの女性で、片言の英語でサーブして行く。それから,いろいろ城の周りの片付け等している体の大きな使用人、その他にも,数名いたが,皆ラテン系の大らかさに加え田舎の素朴な暮らしが顔に出ている本当にいい人たちだった。 3月26日から麻布十番での個展について 7.シエナ
3月26日から麻布十番での個展について ついにシエナへやってきた。今回の旅行のメインの一つである。この街の名はずっと前から知っていた、おそらく数十年になる、それというのも、絵の具の中にこの街の名がついた色があるのだ、それはバーント・シエナとロウ・シエナという色。実はつい最近までこれがこの街の色だとは知らなかった。 つまりこの街の土を砕いて焼いたものが、バーント・シエナという色になる訳だ。今でもそうして作っているかどうかは知らないが、この街は確かにこの街はシエナ色に染まっていた、街中がほとんど同じ色なのである。私はこの色を確認するためにここへ、やってきたのだ。 しかし来てみて驚いてしまった、街があまりに美しいのだ。ヨーロッパには中世の街がいろんなところに残っていて、それは旧市街と呼ばれ、新しい市街と区別されていることが多い、そしてその旧市街は大抵たいしたサイズではなく、歩いて1時間もあれば十分まわれる。ところがここシエナは昔からの大きな旧市街がそっくり残ってしまっている。中世の昔、このシエナがこんなに大きな街になったのにはもちろん理由がある。ここシエナは隣にあったフィレンツェと豊かな農園地帯トスカーナの覇権を巡って対抗するほどの都市だったのである。 そして幸福なことにこのシエナは負けてしまったのである。幸福なことにというのはそのためにシエナの街の発展が止まってしまったのである。つまり、日本で言う過疎の町的現象が起こってしまった訳である、日本では木造のため、500年もの期間持ちこたえることはできないが、ここイタリアでは建物は石やレンガでできている。 おかげで、こうして今訪れると当時のままの町並みが残っているということになる。自分の家の壁が500年前に作られたなんて、考えられるだろうか、その家で何人の子供が育ち、何人の人が死んだのだろう。 ここシエナは街は素晴らしいのだが、芸術となるとあまり知られた作家がいない。かくいう私も、シエナ派の画家というものをほとんど知らなかった。時代的に言うとつまりはゴシックが終わりを告げルネッサンスの初期の芸術家たちの作品が多く残っている。 一説にはこの頃十字軍により、西アジアや果ては中国の文化がもたらされ、ヨーロッパへと拡散していく中継点であったイタリアは、このとき未曾有の発展を遂げることとなり、同時に、そのような新知識によってルネッサンスが開花していく訳である。そのような大変興味深い時期ではあったが、この後訪れるルネッサンスの最盛期の作品に比べると、やはり見劣りがしてしまう。 しかしそれでも私はこの街が大好きになってしまった。このシエナの有るトスカーナ地方はイタリアでも食の豊かなことで有名であり、車で10分走ればそこはもう本当に豊かな田園地であり、見渡す限り、オリーブの木、ブドウの木、そして小麦畑が続く。つまりそれがこの地方を代表する、食べ物なのだ。 おいしい食べ物と、美しい街、その上さらに、このシエナはイタリアの中でも女性が美しい街とされているらしい。そう言う理由があれば、またこのシエナを訪れない訳にはいかないだろう。 3月26日から麻布十番での個展について
6. サン・ジミニャーノ
3月26日から麻布十番での個展について ![]() ここは中世の町がそっくりそのまま残っている街として、また沢山の塔が有る街として有名である。実はもう一つここだけにあるワインでも有名である。 街に入ってみて驚くが、あえて、似たところを探すとすれば、、ディズニーランドのようなテーマパーク、あるいは京都の映画村か。しかしここはそんな、後世の作り物とは違い本物、500年以上も前の街がそっくり残っている。 ここらがイタリアの面白いところで、中世までは地中海交易、あるいは,シルクロードの西側の果て等、いろいろな意味で、ヨーロッパの中心として栄えたイタリアが、その後の大航海時代に、アフリカ南端を使う航路やコロンブスに寄るアメリカ大陸への航路等で、イタリアの重要性が急速にしぼんでいった。それ以降、これら中世の街の発展が止まるわけである。 そしてその事は後世の私たちにはすばらしい贈り物として、美しい街並をそのまま残す事になった。悲しいかな、その歴史の中でもサン・ジミニャーノは2つの大国(フィレンツェとシエナ)の間であったため、これ以上の発展はなく、ここを通っていた街道も、やがて使用されなくなった。そのため街はその後、何の手も加える事が出来ない程に経済的に困窮し、今に残っているわけである。 トスカーナの美しい田園地帯を抜け、小高い丘になった部分に塔の並ぶ街が見えてきたときの感動は簡単には言い尽くせない。 ここは城壁にすっぽり囲まれた街、城門は全部で5つ、つまりこの門を閉じれば外からアクセスできなくなる、実際にこの門が閉じられ、中で敵を迎え撃つ事はあったのだろうか。 4月の終わりという観光シーズンにはすこし早い時期を選んで訪れた為、しまっている店もあったりはしたがその分街を堪能できた。また街は岡の上にある為、周りのトスカーナの美しい田園風家も楽しめる。 当然の事であるが、ここでは実際に人が住んでるため、街のあちこちで、老人等が会話している風景を見かける。 おそらくここらが観光化されてきたのは過去20年くらいのものであろう、その昔は一体どういう街だったのだろう、彼らがその生き証人である、残念なことに私はイタリア語がしゃべれないため彼らのその事を聞く事は出来なかったが、もし聞けたとすれば、きっと、「俺らの子供の頃はなー......」と、延々話しが続いたのだろう。 そしてここだけにあると言われるワイン、ヴェルナッチャ・ディ・サンジミニャーノ。これは白なのに、肉料理でもいけると言われる、しっかりとしたワイン、そしてもちろんDOCGを受けている。 実はこのワイン、ミケランジェロも飲んで美味しいと言う言葉を残しているとの事。こういう発見があるからイタリアは楽しい。ひょっとしてミケランジェロも、フィレンツエとローマを往復しているときにこの町で飲むワインを楽しみにしていたのだろうか。 3月26日から麻布十番での個展について 5.チンクエ・テッレ
![]() 3月26日からの麻布での個展について ここは、イタリアン・リビエラと呼ばれる地域の南の端、そして地名の「チンクエ・テッレ」と言うのは、5つの土地と言う意味。 ここはまだ海外の旅行者は少ないものの、イタリア国内では良く知られた観光地である。とにかくひなびた漁師町なのだが、面白い事にこの5つの土地は、鉄道路線が引かれる最近までは隣町に行くには基本的に海からで、もちろん山道もあるのだが、それはあくまでも歩いて行ける道で曲がりくねった道を上の方まで上がってまた降りてくると言う、大変な労力を要する物だったようだ。つまり裏側からは、ほとんど攻めてくるのが不可能な岸壁に張り付く様にして家々が建っている。それもそれぞれの家が隣の家と壁を共有しているので、海側から見ると,様々な高さと形と色の家がぴったりと寄り添って建っている。 私は迷路のような道に沿って、家の間に入っていってみたが、一人分の道が迷路の様になりながら、どんどん上に向かっていっていて、上がりきったときにはおそらくビルの5階分程の高さまで上がっていたと思う。この土地で暮らすには本当に足腰が強くなければだめなんだろう。 そしてその5つの土地だが本当こじんまりとした集落で、どうも、山から流れ出る川が海に流れ落ちる場所にそれぞれ船着き場を作りそこに住み着いていったようで,飲み水の確保はやはり最も大切な事だったと言う事が理解できる。 しかし,ここは世界遺産に指定されているだけの事はあり、ほんとに美しい町(村と言った方がいいだろうか)と枯れた味わいが見事に調和する、すばらしい場所だった。 実は私はこの5つの村の一つに、すばらしいレストランを見つけたのだ。名前はデル・カピターノ、ベルナッツァにある。 このレストランとの巡り会いだが、すこし寒くなってきたので、セーターを買おうと入ったお店で、近くで美味しいレストランはないかと聞いてみると、その店のオーナーも、仕事の後によくいく店よと、紹介してくれたのがここ。 自分の店の名刺をくれてこれをそのレストランで出して紹介してもらったというといいわよと言ってくれた。この名刺作戦はその後も良く役に立った、知らない場所で、ましてや言葉もほとんどしゃべれない外国人がいきなりレストランに行っても、結局は一見の客として、軽くあしらわれるのが落ち、こういう事をすこしでも防ぐ為には、どこかの店の紹介であればそこの店との関係は壊したくないので、レストランもある程度は丁寧に対応してくれる様になる。 で、いってみると、まだレストランの時間には早く後30分待ってくれと言われたので、時間つぶしに日の暮れかかった桟橋を散歩することにした。 イタリアは夕食が遅いということは、一応知ってはいたが、やはり国によって食習慣の違いは頭に入れておかないとあまり時間に余裕のない旅行ではスケジュールがうまく行かなかったりするので気をつけなければいけない。特に今回のようにガイドなしで回るときは、ある程度調べておかないと、食い逸れてしまうこともあるので要注意。 漁師町と言うことで、当然ここではシーフードを食べることになるのだが、日本人として外国で食べるシーフードはなかなか難しい。なんといっても日本は世界でも魚を食べることにかけては最高の文化を持っていると思う。外国でメニューにあるからと、つい魚類を頼んでしまうことがあるが、たいていはがっかりだ。 それはきっと醤油に魚という組み合わせに慣れ親しんでいる私自身の舌のせいもあるだろうが、私はそれ以上に、日本人のこだわりと、味覚のよさによる調理法だと思う。 日本人は本当に魚をおいしく食べる方法を良く知っている。塩の振り方、下ごしらえの方法、臭みの抜き方、時期により食べる魚の種類の変化、また魚によって千差万別にかわる調理法。 こういうことを経験している日本人の舌を海外のレストランで納得させるシーフードに出会うことはなかなか難しいもの。しかし、ここイタリアではかなり期待していた。それにもちろんここは漁師町、否が応でも期待は高まる。 レストランのオープンの時間になり行ってみると、席に案内してくれて、オーナーがやって来たので、ここでのお勧めはと聞いてみると、パスタはキノコのソースでタリオリーニ、聞いたことが無かったが、この地方では有名な生パスタらしく、その後よく食べる機会があった。それに英語でシーフードスープと書いてある料理、つまりこれはブイヤベースで、魚貝類のトマトソース煮込み。 そして味は、最高!。この旅行中1番の味。 聞いてみるとこのオーナーはニューヨークに仕事にいっていたこともあり帰ってきてこの店を開けたという話。 とにかくおいしかったこのお店、イタリア中の他の店と同様、少し塩加減はきついのだが、こればっかりはイタリア中どこでも変わらない。それにワインはどうすると聞かれて、このオーナーなら何でも任せてしまえと、お勧めはと聞くと、ハウスワインが一番とのこと、もちろんそれを頼む事にした。これがまたおいしい、オーナーに、おいしいというと、「あたりまえ」とウインクされ、「うちで作ってるんだから」と言われてしまった。 このチンクエ・テッレの一つのお土産屋に、英語を流暢に話す年配の女性が居たので聞いてみたところ、オーストラリアの人で、この土地のイタリア人とたまたま出会い、結婚してこの土地にたどり着いてしまったと言うが、ここで、土産物屋をしながら,余生を過ごすのはあまりに贅沢な事ではないだろうか、うらやましくてしようがなかった。 私もここで絵を描きながら、観光客相手に売ってのんびり暮らすと言う事をセミリタイヤ後の目標とした。さてさて、この夢は叶う事やら。 3月26日からの麻布での個展について 4. ピサの斜塔
この斜塔は、私も子供の頃、どこにあるかなんて知りもしなかったがこれが外国にある塔だと言う事だけは知っていた。そして来てみると、確かにこの塔の傾き方は恐ろしいまでで、良くこれで500年もの間倒れなかった物だと感心する。実際はすこしづつ傾いて、つい最近、大掛かりな工事に寄って、それ以上は傾く事が無い様になったらしいが。 しかしここもフィレンツェ同様、世界遺産に指定されている、この斜塔も有名なのだが、実はこのピサはイタリアの誇る海洋王国であって、その昔は相当な国力を誇っていた、しかし、隣にあるフィレンツェの支配下に入ってからは次第に衰えていったとの事である。 つまりピサと言う国が海洋王国として輝いていた時期に造られた建造物がこの斜塔であり、さらにすばらしいのが同時期に建てられたドゥオーモと洗礼堂である、これらの建造物は間違いなくロマネスク様式の頂点の一つである。そしてこれらを取り巻く広場がまた美しく、当時の栄華を偲ばせる。 この洗礼堂やドゥオーモの外側の装飾のすごさには驚かされた。隅から隅まで彫像と柱で飾られている。 ノブ・ハイハラのホームページ 3. レオナルド・ダ・ビンチの生家
フィレンツェでルネッサンス芸術を十分楽しんだ後は次の目的地ピサへ向かった。 しかし、その途中、フィレンツェからわずか1時間のところにダビンチの生家が残されている、これは見ないわけにはいかない。 しかしヨーロッパを車で移動するのは本当に楽しい、とにかく皆運転が荒い、他の車皆がすごいスピードで追い越していく、私はここでは安全運転で通る。 それに道路は狭いながらも良く整備されているし,各国と地続きのせいか標識も実に読みやすい、ただ、信号が少なく、ちょっと田舎の交差点はたいていロータリー式になっていて、入る前に出口の見当をつけておかないと出れなくなってしまう。これって日本にも昔あったのを知っているが、今、これが使用されている交差点ってあるのだろうか? とにかく、地図とにらめっこでビンチ村に到着、これを超えて数分でダビンチの生家である。 実はここで曲がるべき所を見失ったようですこし走りすぎたところで、道沿いの畑で作業していた人に聞いてみた。 もちろんここでは英語は通じない、そこでうろ覚えのイタリア語ので、家は確か「カサ」だったはずと、「カサ・レオナルド」と聞いてみたら、見事に理解してくれて、きた道の方を指差して、何か言っている。 ここはとにかく引き返すべきと、「グラッチェ」とお礼を言ってすこし戻ってみた。すると今度は道ばたで、4−5人で何やら語り合っている1団を見つけたので、また同じ質問をしてみた。 今度も皆が同じ方向を指差したが、一人ビール缶を片手にして顔の赤いおじさんがニコニコ話しながらやってきて親切にいろいろ話し手くれる、しかし、もちろんそれはイタリア語で、全くこちらにはわからない、しかし話し振りから、どうもすぐそこだと言う事はわかったので、お礼を言って後にした。どこの国でもそうだが田舎に行く程人々が親切になる。 そこからほんの1分も走らないうちにレオナルドの家と書いた標識を見つけたので、それに従って曲がっていくと確かに家があり、向こうに観光客用の駐車場があった。実際は何でもない、石造りの家であるが、ここでレオナルドが生まれたのかと思うと、やはり、感慨深い物がある。部屋の中を覗いたり、家の前に立って,遠くの景色を眺めたりして時間を過ごしてみた。すこし山手にある為、家の前からの景色は驚く程よく、遠くまで見渡す事が出来た。 ここでの幼年時代が将来あれだけの作品を制作し,500年経った今でも天才と呼ばれ、未だに様々な本が出版されるだけの人間を生み出したのかと思うと,驚きである。 画家のホームページ Excite エキサイト : 経済ニュース
今回の麻布十番での個展はイタリア風景画も展示されている。
そこで、きょうから数日にわけて、イタリア旅行の時の記事を掲載しよう。 1.到着まで ロサンジェルスを出発し、シカゴで乗り換えた飛行機は夜のうちにイギリスを抜け、フランス上空で空が明るくなってきた。窓から下を覗くとまだくらい闇の中に光の集まった街が見えそこから放射線状に光の道が広がっている、この道が地形にそってだと思うがくねくねと曲がっているところがヨーロッパらしい、アメリカでは、たいてい直線になっている。 その闇の向こうに朝日がしてきた頃,飛行機は一旦海の上に出た、たぶん、ここらあたりはコートダジュールの上空だろう。つまり、フランスから地中海に抜けたと言う事だとおもう。そしていくつか島の上を通過してレオナルド・ダ・ビンチ空港へ到着。 2.フィレンツェ ここからはイタリア、一体英語はどこまで通じるのだろう、今更心配しても始まらないが、予定では今日このままフィレンツェへ入る。とりあえずローマへ出て、そこからフィレンツェ行きの急行に乗り換えるはずだったが、どうも乗ったのは快速かなにかで、到着が2時間ほど遅れてしまった。しかし、おかげでトスカーナの美しい田園風景を堪能することが出来た。いろいろな場所に古い建造物が見える、次回はここらの村を一つずつ時間をかけてゆっくり回るのもいいかなと考えながら外を見ていると、やがて建物が増えてきてフィレンツェに到着したことがわかった。ここから今回の宿泊所までは歩いても15分程のはずだが、最初なのでタクシーで向かうことにした。タクシーは町中を抜け、ドゥオーモの横を通り宿泊地へ、今回はホテルではなく、ベット・アンド・ブレックファースト(B&B)に泊まる。 ベット・アンド・ブレックファースト(B&B)はその名の通り朝食付き宿泊所、たいていホテルより規模が小さく、お風呂の代わりにシャワーのみということが多いが、部屋数が5から10くらいしか無いので、オーナーと親しく話す事が出来る。 ちなみにこのB&Bの入り口だが、普通の建物の2階部分だけを使用してるので、アパートにでも入るような感じの入り口で、ドアの横にあるブザーでオーナーを呼び出して、ドアを開けてもらう。 ここフィレンツェは、ルネッサンスの中心地、この時代のあらゆるアート、それも最高の作品が揃っている、しかし、しかし中でもボッティチェリ、ミケランジェロ、それにレオナルド・ダ・ヴィンチがこの時代の芸術の主役だろう。この3人の作品を見る為にここまでやってきたのだから。しかし、その作品群を見る前に目に飛び込んでくるのがドゥオーモの大きさ、滞在しているB&Bの前の道から小道を曲がったとたんその道の向こういっぱいにそびえ立っている,とにかくその巨大さには驚く。5世紀も昔、この教会を造ったときの人々の熱意や苦労がそのまま伝わってくる。このドゥオーモの円蓋を造ったブルネレッスキ、資金を提供したコジモ,その他のルネッサンス芸術の推進者たち、この街こそが、ルネッサンスの息吹をそのまま伝える芸術なのは間違いない。しかしそれにしても面白いのはこの街とメジチ家の関わり合いだ、何世代にもわたって、この街と関わりながら時には追放されたり暗殺されたりしながら結局はこの街の統治者として帰ってくる事になったメジチ家の人々。 メジチ家がルネッサンス芸術を推進したのか、芸術家たちが造り上げたのか、あるいはこの街の人々がそうさせたのか。恐らく答えはその全てなんだろうが、後世のヨーロッパ芸術の生みの親として、この時期のフィレンツェの街は最高の仕事をした事になる。そしてその頃の街並がそのまま残っているというのだから、私たちのようなアートを生業にしている人間にはたまらない魅力を持った街である。 今日は軽く街を一回りして明日様々な美術館で、出逢えるすばらしい作品たちの事を考えながらB&Bに一旦帰ることに。 夜はB&Bのオーナーの勧める地元の人が良くいくという、オステリア(軽食の店)「ZIO gigi」という店に行った。ホテルのすぐ裏手だが、人通りの無い道の中程にある店でパスタに豚のステーキ、そしてワインはもちろん測り売りのキアンティ。ここが驚く程安い,さすがオーナーのお勧め。 旅行に行くといつもそうなのだが、次の日は時差ぼけのためかなり早く目が覚めた。 そのまま朝食前に近くを回ってみる事にして、B&Bを出て、昨日回ったあたりを探索、朝見るとまた違った風景が見れるので面白い。観光地だけの事は有って、早い時間から、清掃車が出て昨日の夜のゴミを片付けている。 午前中は楽しみにしているダビデをアカデミアで鑑賞、これはメジチ家を追放したフィレンツェからの依頼で、3年を費やしてミケランジェロが制作した、共和政の象徴となった作品。 とにかく驚きの作品としか書きようが無い、それ以上何と書けばいいのだろう。会場には人が少しづつ増えていっていたが、私はダビデを見つめたまま動けなかった。この彫刻の事は良く知っていたし、いろいろな本で書かれている解説や評論ももちろん読んできた。しかしそれはあくまでも他人の意見だ。それでは、私のこの像を前にした自分自身の意見は、一体なんなのだろう。ダビデを見た後、今この文章を書いている今、改めて、自分に問いかけてみたが、感動という言葉以外何も浮かばない。そこには私がいて、ダビデが有って、それを丁度500年前それを制作したミケランジェロがいて、そして、そこには感動が有った。そして今もその感動は続いている。 彼の29歳のときの作品という事だが、その若さでこれほどの作品をという思いと、確かにその若さでなければ造れなかっただろうこの大きさ、これこそがルネッサンスと言う時代を象徴する作品では無いだろうか。その前には未完成の奴隷像が展示されていて、大理石を削りだして行く工程がよくわかる。 アカデミアを出た後はその裏手にあるサン・マルコ修道院を訪れたが、ここはあの有名なサヴォナローラがいた修道院で、細かな説明は省くとしても、この修道士がフィレンツェで行った活動は興味深い物が有る、一体どうして彼は殺される事になるほど極端な思想に取り付かれてしまったのだろう、最初はメジチ家や市民のマテリアリズムな生活に異を唱え、やがてはついにメジチを追い出し、フィレンツェを一時的にせよ掌握してしまう。しかしながらその勢いでローマ教皇までも批判をしてしまい、独自の道を歩きだしてしまう。実に不思議な男である。 その後、お昼は労働者に囲まれながらピザ量り売りの店で食べた。おなかもすいてきたしお昼だしと、このお店に飛び込んでみたが、注文のシステムがわからず前に並んでいる人の、様子を見ていると、どうも、気に入ったピザを指差しカットの大きさを言えば良いらしいという事に気づき、ジャガイモのピザと茄子のピザをそれぞれ小さく頼んでみたが、やっぱりイタリアで食べるピザはおいしい、日本で言うなら近くのラーメン屋という感じだろうか。 午後からウフィツィを訪れたが,ここはルネッサンスが全て集まっている美術館で、ここに来なくてはルネッサンス芸術は語れないと言ってもいい程だ。ここだけできちんと見ようと思ったら3日、いやそれ以上かかる。 ここにはあの有名なボッティチェリの「春」と「ビーナスの誕生」がおかれている。もちろんその他にも、ラファエッロやミケランジェロ、ダ・ビンチの作品等も有るのだが、私にはこのボッティチェリの2作が当時ルナッサンスの中でこそ生まれた作品だと思える、事実ボッティチェリはその後上記のサヴォナローラの説教によりキリスト教を題材とした作品を書いているが、それらの作品には精気が無く、いかにも仕方なく描かされたと言えるような作品である。それらの作品に比べ,この2作の自由なテーマ、そしてこの表現力、美しさだけではなく、思想的にも、一つの頂点を迎えている。この作品はボッティチェリだけではなく、ロレンツォ・デ・メジチがいたからこそ生まれた作品だと思う。そのロレンツォの詩にはこの様に書かれていて、このボッティチェリの作品と見事なまでに調和する、その詩とは 「青春は麗し されど逃れゆく 楽しみてあれ 明日は定め無きゆえ」 さてその他の作品であるが、とにかくものすごい、ルネッサンスのアーティストが皆そろっている。ジオット、チマブーエ、フィリッポ・ビッポ,ダ・ビンチ、ラファエロ、ミケランジェロ、ティツィアーノ、カラヴァッジョ、中でもうれしかったのはコジモを始めメジチ家の人々の肖像画が有った事だ、やはりこの街はこのコジモがいて、ロレンツォがいて、教皇となったレオがいて、トスカーナ大公となったコジモ一世と続いていくメジチ家の財力なしには存在し得なかっただろう。 しかし何時の時代にも、芸術をサポートする後援者が存在する。これはパトロンともサポーターとも呼ばれるが、このような後援者がいて初めて芸術家は自分の作品制作に没頭できるのである。 このフィレンツェにおいてのメジチ家はまさにそれである、それは、真の芸術を見分ける目と、芸術家をサポートできるだけの財力が必要だという事が出来る。 もちろん中にはゴッホの様に死ぬまで買い手が着かず自殺、あるいは早死にしていく画家もたまにはいるが、彼とてもし絵が売れていれば、自殺を思いとどまっただろうし、そうすれば、その後彼も絵をもっと突き詰めて探究し、さらにすばらしい作品を作り上げる事が出来たかもしれない。ゴッホは残念な事にその後援者に出会えなかった。 しかしこの時代のフィレンッエはすばらしかった。メジチ家だけでなく、街中が芸術のサポーターだったのだ。 今の日本も、世界の国々から比べれば、本当に豊かな国なのである、こういう、芸術をサポートしていける心の豊かな国になってほしいと望むばかりである。 画家のホームページ < 前のページ次のページ >
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